話題の人、アイドルや芸能人について紹介、コメントします。
1北


 世界新記録の泳ぎで男子百メートルを制した北島康介は、取材ゾーンで晴れやかな表情で質問に応じた。

 −世界新での連覇だ。

 「4年前にできなかったことが今回できた。自分の進化した姿を見せられて良かった。五輪は楽しい。もう一回味わえただけでも幸せ。ここで勝負することを待ちに待っていた。泣いちゃいました」

 −泳ぎはどうか。

 「完ぺき。理想の泳ぎと思う。パーフェクトと言ってもらわないと困るかな。ひとかき、ひとかき、泳ぎに集中した。(およそ)1分で決まるレース。悔いを残したくなかった」

 −作戦は。

 「前半はリラックスして大きな泳ぎをしていこうと思った。ラスト5、10メートルが勝負だと言われていた。余力を持って前に出たかった」

 −ダーレオーエンが絶好調だった。

 「僕に重圧をかけた存在。準決勝のタイムは驚異的だった。彼が勝ってもおかしくなかった。彼がいてくれたおかげで自分らしく行けた」

 −決勝前日はどんな気持ちだったのか。

 「午後にゆっくりできたので体を回復することができた。夜もよく眠れた。気負うことなく集中して決勝に(照準を)もっていけた。ばっちりでした」

 −二百メートルで2大会連続の2冠が懸かる。

 「もちろん二百メートルも勝負する。すきを見せないように泳いで勝ちたい」(共同)

1北ハン
ハンセンと北島




1エバ.jpg


[eiga.com 映画ニュース] 「最後の恋のはじめ方」「ゴーストライダー」でヒロインを演じたセクシー女優エバ・メンデス(34)がこのほど、米大手ファッションブランド、カルバン・クライン(CK)のランジェリーと香水の広告の顔になった。ところが、完成したばかりの同社の香水「シークレット・オブセッション」の新作CMが、あまりにセクシーすぎるという理由で、早くも全米で放送中止になり、物議をかもしている。

メンデスは英サン紙に、「コマーシャルの中で、ベッドの上でゴロゴロしている私が見えるでしょ。基本的に、私はゴロゴロしていただけよ」と語っているが、全裸の彼女はシーツにくるまっているものの、30秒あるCMの16秒目あたりで、乳首がしっかり見えてしまったのが今回の放送中止の原因のようだ。

一方で、CK側は下着広告においても、米男性誌「ホットな女性ランキング」の上位常連であるメンデスのセクシーさを強く打ち出す構え。彼女が今年の秋冬ラインのブラとパンティを付けた下着姿の広告を、ビルボード(広告看板)や雑誌を通じて大きく広告展開させていくという。

「(女性らしい)ドレスやスカートが好き」と日頃から語っているメンデスだが、下着については実のところ、飾り気のない男性用が好みらしく、サン紙にこう答えている。「私が好きなのは、カレ(映画製作者ジョージ・ガーグレビッチ)のCKのブリーフね。家ではずっとそれを履いているわ」

メンデスは現在、ニコラス・ケイジ主演の「バッド・ルーテナント」リメイク版(ベルナー・ヘルツォーク監督、09年公開)を撮影中。その前作であるスカーレット・ヨハンソン共演の「ザ・スピリット」(フランク・ミラー監督、12月25日全米公開)でも、全裸をいとわず、セクシーな悪女を演じている。

羞恥心+Pabo合体ユニット アラジンデビューライブ開催
羞恥心+Pabo合体ユニット アラジンデビューライブ開催


羞恥心+Paboの合体ユニット、アラジンが7月30日にシングル「陽は、また昇る」をリリース。同日に、東京台場のZEPP TOKYOでデビュー記念イベントを行なった。

◆デビュー・イベント【Photo Album】
◆「陽は,また昇る」PV視聴

1日で計4公演行なわれたこのイベントは、1回につき2,500人を動員、合計1万人のファンを動員する盛況ぶりで、彼らの人気と注目度の高さを証明してみせた。

トーク・コーナーでは、進行役のフジテレビ・中村仁美アナから今回のシングルについて振られると「男女なので、声を合わせるのが大変でした」(里田まい)と、制作時の苦労話も。トークの後のライヴでは、Paboと羞恥心、それぞれの楽曲も披露され、彼らの一挙手一投足に大きな歓声が上がった。

ライヴ後にステージ上で行なわれた囲み取材には、テレビはもちろん雑誌やWEBなどマスコミ各社が多数参加。その中には、独特の世界観での取材スタイルにもファンが多い、TBS『サンデー・ジャポン』チームの姿も。サンジャポ・チームからの質問が出ると、「キター! サンジャポ!(笑)」とアラジンのメンバーも嬉々とした表情を見せていた。

また、つるの剛士は「こんなおバカな6人でも、戦うサラリーマンの人たちに“頑張ろう”っていう気持ちになってもらえればうれしい」と、最年長メンバーらしく、しっかりとデビュー曲をプロモーションした。

■レーベル・サイト http://www.randc.jp/aladdin/discography.html
Barksニュースより
TOP5 



「2008ミス・ユニバース(Miss Universe 2008)」世界大会の最終選考会が14日、ベトナム・ニャチャン(Nha Trang)のクラウン・コンベンションセンター(Crown Convention Center)で開催され、ミス・ベネズエラのDayana Mendozaさん(22)がミス・ユニバースの栄冠に輝いた。

 最終候補者の5人にはそのほか、コロンビア、ドミニカ共和国、ロシア、メキシコの代表者が選ばれていた。

■TOP5入賞者

第1位:ベネズエラ代表/Daiana Mendoza

第2位:コロンビア代表/Taliana Vargas

第3位:ドミニカ共和国代表/Marianne Cruz

第4位:ロシア代表/Vera Krasova

第5位:メキシコ代表/Elisa Najera

◎Complete results (gown / swimsuit results*):

1) Venezuela - Diana Mendoza (9.697 / 9.327)
2) Colombia - Taliana Vargas (9.829 / 9.433)
3) Dominican Republic - Marianne Cruz (9.036 / 8.983)
4) Russia - Vera Krasova (8.471 / 8.414)
5) Mexico - Elisa Najera (9.429 / 9.071)

* final interview scores were not revealed

Semi-finalists (gown / swimsuit scores):

6) Kosovo - Zana Krasniqi (8.264 / 8.120)
7) Spain - Claudia Moro (8.200 / 9.150)
8) USA - Crystle Stewart (8.050 / 9.207)
9) Italy - Claudia Ferraris (7.729 / 7.671)
10) Australia - Laura Dundovic (7.557 / 7.814)

Quarter-finalists:

11) Czech Republic - Eliška Bučková (7.386)
12) Hungary - Jazmin Dammak (7.229)
13) South Africa - Tansey Coetzee (7.133)
14) Japan - Hiroko Mima (7.100)
15) Vietnam - Lam Thuy Nguyen (7.050)

○グローバルビューティーズ公式ウエブサイトより
http://www.globalbeauties.com/


★ダイアナ・メンドーサ (Dayana Sabrina Mendoza Moncada、1986年6月1日 - )は、ベネズエラ、カラカス出身のファッションモデル。2007年度ミス・ベネズエラとなり、2008年7月13日ベトナム、ニャチャンで開催されたミス・ユニバース2008ページェントにおいて、ミス・ユニバース2008の栄冠を手にした。

身長176cm。Measurements:バスト85.1cmウェスト58.4cm ヒップ88.9cm 

グリーンアイズ ブラウンヘアー

First Name: Dayana
Last Name: Mendoza
Nationality: Venezuelan
Ethnicity: Venezuelan
Hair Color: Brown
Eye Color: Green
Date of Birth: 1986年6月1日
Place of Birth:ベネズエラ、Caracasカラカス
Height: 5'9.5" ; 176.5cm
Measurements: (US) 33.5-23-35 ; (EU) 85-58.5-89
Dress Size: (US) 4 ; (EU) 34
Shoe Size: (US) 7 ; (EU) 39



2001年にエリートモデルルックのファイナリストとなってエリートモデルスと契約し、イタリア、フランス、アメリカ合衆国、イギリス、ギリシャ、スペイン、ドイツ、メキシコ、ペルーなどでモデル活動をしてきた。ジャンニ・ヴェルサーチやロベルト・カバリなどのブランドと仕事をした。メンドーサは、スペイン語、英語、イタリア語が話せる。

●ミスベネズエラ公式サイト
http://www.missvenezuela.com/index.asp

●ミス・ユニバース公式サイト
http://www.missuniverse.com/



1べ1


 3か国語を話すというMendozaさんは最終候補者への質問で、男女の違いについて問われたとき、次のように答えている。「男性より女性のほうがある地点までたどり着く最も早い方法を知っています。男性は、まっすぐ進むことだと考えますが、女性は曲がり道を進むことを考えますから」

 司会を務めた米トーク番組の司会者ジェリー・スプリンガー(Jerry Springer)に、ミス・ユニバースとして名前を呼ばれた瞬間、黄色のドレスをまとったMendozaさんの目からは喜びの涙が溢れていた。

 Mendozaさんは賞金と、靴、ドレス、化粧品などが入ったギフトバッグを獲得し、ニューヨーク(New York)の豪華な部屋に住み、1年間ミス・ユニバースとして世界中で活動を行う。

 学校、地方の村、そして刑務所でも美人コンテストが行われるというベネズエラは、これまで4人のミス・ユニバースと5人のミス・ワールド(Miss World)を輩出した「美人コンテスト界の超大国」と考えられている。(c)AFP



Interview
●What are your interests and what do you enjoy doing the most?
どんなことに興味がありますか?
Interior design, photography, advertising, and I enjoy meeting people from every country and learning languages.
私はインテリアデザイン、フォトグラフ、広告に興味があります。そしていろんな国の人と出会うことや言葉を覚える事が好きです。
●What is your career ambition?将来の夢は
Interior Design and also advertising but as Oscar Wilde used to say, "To define oneself is to limit oneself".
インテリアデザイナーと広告関係の仕事をしたいです。「自分を明確にする事は自分自身の限界を試す事である。」とオスカーワイルドが言っています。
●What is your proudest personal accomplishment?
あなたのもっとも輝かしい成果はなんですか
Being independent from the age of fifteen on, living in different countries by myself without knowing the language at the beginning and without the presence of my parents. Having succeeded in working in different cultures and learning the most from them.
15歳から独り立ちしていることや両親から離れて言葉も分からずに異国で生活した事です。

●What is something unique that has happened to you; some interesting thing about you?
あなたに起こったユニークで興味あることはなんですか。
I was once kidnapped, in what in my country is known as an express kidnapping. It was a very hard experience. I learned to remain calm in a very stressful situation and to try to reach to the human part of our abductors.
私は私の国ではよくあることですが子供の頃誘拐されました。其の時経験はとても辛いものでした。
そこで私はストレスの状態のままででさえも穏やかにしていなければならない事、そして誘拐者の人間性を理解しようと試みる事をを学びました

●What do you want the judges to know about you?
あなたは審査委員に自分についてどんなことを知ってもらいたいですか。
I am grateful to life for my family and for the opportunities to grow in different places and learn the most from them. Even in the hardest of times what my family and life has taught me has helped me push through and succeed.
私は家族のために生かされていることや外国で生活する機会をもらったことそして多くのことを学べた事に感謝しています。どんなに困難な環境であっても私の家族と命は最後まで貫き通す事や成功することを私に教えるとともに援助してくれたことです。
<翻訳は coolboy>

インタヴュー



◆2008年ミス・ユニバース世界大会が14日、ベトナム中部のビーチリゾート、ニャチャンで行われ、世界80カ国・地域の予選を勝ち抜いた18−26歳の女性が美を競った。日本代表の日大4年、美馬寛子さん(21)=徳島市出身=は上位10人に残れず入賞を逃した。

 優勝はベネズエラ代表のダイアナ・メンドーサさん(22)。2位はコロンビア代表、3位はドミニカ共和国代表。

 この大会では06年に知花くららさん(26)=那覇市出身=が2位に輝き、昨年は森理世さん(21)=静岡市出身=が優勝するなど、日本人が上位に食い込んでいたが、3年連続の入賞はならなかった。

 優勝者はエイズウイルス(HIV)感染予防の啓発など慈善活動で世界各地を巡る。(共同)

1モデル


[ベルリン 12日 ロイター] 当地のポツダム広場で12日、モデルのIwonaさんがビキニ姿で写真撮影を行った。Iwonaさんは身長196センチで、股下の長さは134センチ。

 着用したビキニは、ドイツ人デザイナーのTorsten Amft氏がデザイン。同日の撮影会は、今月17─20日のベルリン・ファッションウィークで行われるAmft氏のショーのプロモーションのために開かれた。
1モナ1


巨人二岡智宏内野手(32)と都内のラブホテルに入るなど不倫騒動の渦中にあるタレントの山本モナ(32)が10日、メーンキャスターを務めるフジテレビ系「サキヨミ」(日曜午後10時)のほか、すべてのテレビ・ラジオ番組出演を自粛し、謹慎することを発表した。

 モナの所属するオフィス北野は、出演する放送局すべてに「当分の間、出演を見合わせたい」という意向を伝え、モナには謹慎を命じた。モナは不倫疑惑が発覚した9日に、ラブホテルに行ったことを認めた上で「お酒を飲んだだけで、他には何もなかった」と釈明したが、軽率な行動には厳しい対応がとられた。

 同社の決定は森昌行社長の署名でマスコミにも配布された。06年に民主党議員との不倫のためTBS「ニュース23」のキャスターを降板した不祥事に触れながら「大抜てきを受けながら、キャスターという重責を預かった立場にはふさわしくない、自覚に欠けた行動であった」と「サキヨミ」のフジテレビに謝罪。CMスポンサーなど関係各方面に説明と謝罪に回ったことをつづっている。

 同社がモナに謹慎を命じた背景にはオーナーでもあるビートたけし(61)の意向も強くあるはずだ。前回の不祥事後、モナはたけしの後押しでバラエティー番組からやり直した。モナの奮闘もあり、メーンキャスターンに抜てきされるまでになったが、わずか1度の放送で番組を離れる失態。たけしの顔に泥を塗る形だけに、キャスター以外の仕事も許さない、処分となったようだ。ただし「社内での指導・教育に努めてまいります」と、解雇の厳罰までは考えていない。

 モナの活動自粛を受け、フジは「サキヨミ」の次回13日の放送を、現在出演する伊藤利尋、大島由香里両アナウンサー、コメンテーターのウエンツ瑛士ら現行のレギュラー陣を中心に放送する予定だ。関係者によると、番組冒頭でモナ不在の理由を説明するだけでなく、本人からの視聴者への謝罪文などを読み上げる可能性もある。同局広報部は「山本氏のキャスターとしての可能性に期待していただけに、番組スタート直後にこのような事態となり、大変残念であり、かつ遺憾に思う」とコメントした。 関係者によると、モナは新番組の1回目の放送終了後だけに、反省会をするものと待機していたスタッフを残し、1人でお笑いタレントの待つ酒席に向かった。さらには二岡とのラブホテル行きが発覚したとあって、同局の現場でも裏切られた思いが強い。「降板は当然」の流れだったが、以前の不祥事のリスク覚悟で招聘(しょうへい)した目玉キャスターでもあり、問題が事件性を伴う性質ではないため、この日夜まで結論には慎重だった。今回の出演自粛を受け、関係者は「このまま降板の方向で検討されるのでは」としており、事実上の降板となる。

 「おもいッきりイイ!!テレビ」の金曜レギュラーや「太田光の私が総理大臣になったら…秘書田中」に起用する日本テレビも「事務所およびご本人から出演の自粛の連絡を受けましたので了承いたしました」。「大竹まことゴールデンラジオ!」の火曜レギュラーに起用する文化放送も同様に申し出を了承した。この日、同番組では大竹が冒頭で「バカな女だね」とあきれていた。

◆モナ宿泊のラブホ「何度か見たことある」


 またも不倫騒動を巻き起こしたタレントの山本モナ(32)が、東京・五反田のラブホテルの常連の可能性が10日、浮上した。7日早朝に巨人二岡智宏内野手(32)と宿泊したホテルの従業員が「あの女性の顔は何度か見たことがある」と、証言した。また、モナが東京・新宿2丁目で一般人男性と親密に歩く姿が11日発売の写真誌で報じられるなど、深夜のプレースポットが見えてきた!?

 モナが9日、マスコミ各社に配った騒動釈明の文書で「やむなく入りました」とした五反田のラブホテルはモナの“本拠地”なのか!? この日ホテルの従業員が取材に応じ「あの顔は何度か見たことがある」と目撃談を口にした。同氏は「テレビより実物の方が細く見えたし、100%本人とは断言できないけど」と前置きした上で「未明に泊まりに来る客は水商売の女性や若いカップルが大半。その中で際立って美しい女性がよく来るので覚えていた。彼女は午前3〜4時に来ることが多い気がする」と証言した。

 2人が訪れた7日早朝の担当者は、ホテルの責任者に対し「相手の顔や名前を確認するわけではないので当日の様子も覚えていない」と説明しているという。同氏によると、2人が一夜をすごした「宿泊9800円」の部屋は「うちで最も多いタイプ」。手続きなしで入退室が可能なため「何号室に泊まったか調べられないけど、部屋はシンプルでキレイな造り。SMとか変なプレーはできない普通の客室だよ」と説明した。

 ホテルは、五反田駅西口に広がるラブホテル街の一角にある。都内のモナの自宅から車なら10分の距離だ。地域のラブホテル調査で上位にランクインする人気で、モナと二岡の不倫発覚から一夜明けた10日昼すぎも満室だった。ただ、2人が泊まった日曜深夜から月曜早朝にかけた時間帯が最も空室が多いといい「部屋は選び放題だったはず」。料金は通常8800円〜1万1800円。メンバーズカードもあるが、モナが保有しているかどうかは不明という。

 また、11日発売の写真誌フライデーでは、モナが「週5日は1人で飲みに行く」と公言する新宿2丁目で一般人男性と親密にする新たに姿が報じられた。6月中旬にゲイバーを訪れ、男性に腕を絡ませたり、胸を押し付けていたという。2人の関係は不明だが、男性が在京テレビ局のスタッフという情報もある。


1二岡4
腰がふらついてトンネルする二岡

一言 モナは懲りないね。モナだけでなく二岡も謹慎すべきである。
「巨人軍は紳士たれ」下半身を鍛えるのならラブホではなくグラウンドでやって欲しい


やまもともな山本モナ プロフィール
生年月日 1976年2月11日
現年齢 32歳
出身地 日本・広島県尾道市
血液型 A
瞳の色 ブラウン
毛髪の色 黒
公称サイズ(2005年時点)
身長 / 体重 168 cm / 48 kg
BMI 17(低体重)
スリーサイズ 89 - 60 - 90 cm
ブラのサイズ E
靴のサイズ 25 cm
単位系換算[表示]
身長 / 体重 5′ 7″ / 106 lb
スリーサイズ 35 - 24 - 35 in

活動
ジャンル フリーアナウンサー、女性タレント
他の活動 元朝日放送アナウンサー

山本 モナ(やまもと モナ、本名同じ、1976年2月11日 - )は、日本の女性フリーアナウンサー・タレント。オフィス北野所属。元朝日放送(ABC)アナウンサー。

略歴

広島県尾道市出身。実家は旅館を経営している。福山暁の星女子高校、学習院大学法学部法学科卒業。

1982年 - 6歳の時に日本帰化(帰化前の本名はモナ・ヘグダル)。
1996年 - 「ミスハリー・ウィンストン」グランプリを受賞
1998年 - 学習院大学法学部法学科卒業後、朝日放送入社。同期入社のアナウンサーは上田剛彦。
2001年 - 報道局に異動、アナウンス部兼務となる。
2004年10月 - アナウンス部に復帰。『ムーブ!』の立ち上げにニュースキャスターとして携わる。
2005年4月1日 - 『ムーブ!』を降板。
2005年6月、朝日放送を退社しフリーとなる。オフィス北野に所属。
2005年7月13日・14日の『BATTLE TALK RADIO アクセス』(TBSラジオ)の代打出演が退社後の初仕事。『ムーブ!』で共演した評論家宮崎哲弥の紹介による。
2005年8月6日 - 『たかじんのそこまで言って委員会(SP)』で、朝日放送時代の上司で先輩の宮根誠司と共演。
2006年1月9日 - 『BATTLE TALK RADIO アクセス』月〜木レギュラーナビゲーター。「安倍政権? 絶対駄目ですよ」「民主党への政権交代が必要なんです」など積極的に意見を述べていた。
2006年9月 - 『筑紫哲也 NEWS23』(TBSテレビ)のキャスターに膳場貴子とともに抜擢されるが、2006年10月13日号の写真週刊誌『フライデー』に民主党政調会長代理(当時)の細野豪志議員との不倫を報じられる。体調不良を理由に10月2日から『NEWS23』の出演を見合わせ、10月23日付けで降板。わずか5日間しか番組に出演しなかった。この『フライデー』に掲載された細野との不倫スクープ写真(キス写真)は、2006年度「編集者が選ぶ雑誌ジャーナリズム賞・話題賞」を受賞した。
2007年1月1日、11年ぶりに復活した日本テレビの『ビートたけしのお笑いウルトラクイズ』でテレビに復帰。スイカのかぶりものをして司会を務める(ただし、同番組の収録現場と中継を行った『ラジかるッ』で既に姿を見せていた)。これを機に活躍の場をバラエティにシフトし始める。
2007年1月16日 - 約4ヶ月ぶりに自身のブログ『もなろ〜ぐ』を更新し、「私のいたらなさから、去年は大変お騒がせしてしまって…、本当に申し訳ありませんでした。今年は、反省の上に立って、(中略)何かを見つけられる年になれるよう頑張っていきます」とファンに詫びた。
2007年12月16日 - 同月29日放送の関西ローカル報道番組『環境スペシャル 異変列島ここが危ない!』収録で退社後初めて朝日放送に足を運んだ。但し、ABC東京支社制作の『最終警告!たけしの本当は怖い家庭の医学』にはその前に出演している。
2008年7月10日発売の女性セブンにて、同郷(広島県三次市出身)でもあるプロ野球・読売ジャイアンツの二岡智宏内野手との不倫デート写真を撮られる。
そして、この件を理由に、同日よりテレビ・ラジオ出演を無期限で自粛・謹慎することが、所属事務所によって発表された[1]。

エピソード
山陽新聞尾道支局長だった母方の祖父は、原爆の取材で被爆し亡くなっており、自身は被爆3世となる[2]。2007年8月10日放送の『太田光の私が総理大臣になったら…秘書田中。』では、太田の取り上げたマニフェストが原子爆弾に関する内容だったため、第二秘書の山本も審議に参加した。
母は日本人、父親は三光汽船で外国航路に乗ったノルウェー人航海士。モナが小学校4年の時に三光汽船が倒産したため、父親は解雇されノルウェーに帰国、それ以降1度も会うことなく既に他界しているという[2]。
高校時代、全国模試の世界史・英語・国語の3教科計で全国3位の成績をとった事がある[3]。小学校3年から高校まではピアノを習い、音楽家を志した。
『BATTLE TALK RADIO アクセス』では、2006年4月13日放送で「コンビニでコンドーム買うときは、店員が男か女か気になりますよね、分かる、分かる」と語ったり、同年9月には出演直後の『たかじんのそこまで言って委員会』を番組名は伏せつつも「予定調和の番組だ」「(出演者は)本音で話していない」と批判するなど、大胆なところもある。『アクセス』で共演した井上トシユキ曰く「竹を割って発酵させたようなストレートな性格」。
不倫報道後は主な活動の場をバラエティ番組に移す。『ロンドンハーツ』では不倫騒動も含む自身の過去の壮絶な恋愛経験を赤裸々に告白し、共演者から「嫌味がなくて好感が持てる」と絶賛された。また『恋のから騒ぎ』でも自身の恋愛経験を話した。
一方、不倫をネタにいじられることも増えている。たとえば、ビートたけしから「オフィス北野のパリス・ヒルトン」「アルコール量が減ると甘いものばかり飲む」と言われたり、島田紳助に「彼女は頭エエねん、そやけど人生で失敗してしもてん」「未だノルウェーの法律しか理解していないから路上でキスが出来る」「これ以上マスコミにスクープされない為に石田純一と講談社の本社前でキスをしろ」などと茶化された。『太田光の私が総理大臣になったら…秘書田中。』では、民主党議員がモナの不倫に引っかけた発言をし、太田光が「その発言は民主党(不倫相手も属している)内では問題では」と呆れた様子でツッコミを入れたこともある。
酒好きであるが、飲み過ぎての失敗談も少なくないという。島田紳助の東京にオープンした寿司屋のレセプションで酔ったあげく、YOSHIKIの携帯電話を借りて、自分の携帯に赤外線通信をしようとしたことがある。尚このレセプションでは北村晴男が行列の出来る法律相談所のスタッフ・出演者で参加して散々飲んでYOSHIKIに「バンドなら割り箸で叩いてみな」と暴言を吐いた等が起こって島田紳助が「人のレセプションで何をするんねん」とげんなりしていた。
テレビ番組でM(マゾヒスト)であると発言した。
キレると広島弁が出る[4]。
『ファイナルファンタジーXI』のヘビーユーザー。かつて『週刊ファミ通』に連載を持っていたことがある。
趣味のひとつが麻雀。学生時代に始めて、高田馬場のフリー麻雀に出入りしていた[5]。
広島県出身であるが、プロ野球では広島東洋カープではなく、読売ジャイアンツのファンだと述べている。

クイズ!ヘキサゴンII
初出演は2007年1月31日放送分。42点で3位。その後2回目の出演となる同年3月7日放送分で1位を獲得(江守徹と同点であり、2位扱いに)。

里田まい、つるの剛士、木下優樹菜、スザンヌ、上地雄輔、野久保直樹たち(「羞恥心」、「Pabo」)とは対照的に賢さが認められ準レギュラーとなった。最近ではラサール石井に代わり最上位になる事が多いと同時に、山根良顕(アンガールズ)と同点を取る事が多く、番組のルール上50音順から山根が1位、モナが2位になる事も多々ある。逆としては、度々共演する水野裕子に最下位づけられることが多い。第1解答者を外れたのは2007年5月2日放送分のみ(4位)。

2007年3月28日放送分で司会の島田紳助が男性解答者に「モナさんとデートしたい人おる?」と聞いた際に田中卓志(アンガールズ)が「モナさんにめちゃめちゃにされたい」と発言した事から2人はメール交換するようになり、その後も番組で現状を聞かれるような事が増えた。2007年8月1日放送分でデートの様子を語られたが、2007年9月26日放送分で田中が熊田曜子、ほしのあき、大沢あかねに遊ばされたことを紳助と山根がバラしたことがきっかけで、それ以降あまり進展も無くなった。ちなみに、田中とは2007年3月28日放送分から17回共演しているが、そのうち8月1日から9月26日まで5回連続を含む8回も一緒のチームになったことがある。

準レギュラーであるためか、酔っ払ったモナが紳助の店の開店レセプションで酔っ払ってYOSHIKIに『ヘキサゴンII』への出演交渉を一時間近くにわたり繰り返していたとのこと[6]。


朝日放送時代の出演番組
テレビ
ムーブ!
NEWSゆう
朝だ!生です 旅サラダ
歴史街道 〜ロマンへの扉〜
Dウイルス・デーモン閣下の世紀末的流行図鑑
熱闘甲子園
グッドモーニング甲子園
おはよう朝日です
ワイドABCDE〜す
ABCニュース
セレクTV
ガラスの地球を救え!遊ぼう!!水と太陽と!(2003年)
ラジオ
中原秀一郎のラジオTODAY
ティーンエイジ・ラプソディーズ(ラジオドラマ)
ナレーション(時折出演)
上沼恵美子のおしゃべりクッキング

フリーになってからの出演番組

テレビ
レギュラー
太田光の私が総理大臣になったら…秘書田中。(日本テレビ、2007年2月9日、同年4月13日よりレギュラー)
独占!女だらけの120分 レディGO!(テレビ朝日)※不定期放送
おもいッきりイイ!!テレビ(日本テレビ、2008年4月〜、金曜レギュラー)
TCK.TV メインキャスター
サキヨミ(フジテレビ・関西テレビ共同制作、2008年7月6日)
準レギュラー
ロンドンハーツ(テレビ朝日、2007年1月30日、4月17日、5月15日より準レギュラー)
クイズ!ヘキサゴンII(フジテレビ)
クイズプレゼンバラエティー Qさま!!(テレビ朝日、「プレッシャーSTUDY」実質準レギュラー)
過去の出演番組
ザ・クイズマンショー(テレビ朝日、2007年10月-2008年3月)- 準レギュラー
その他
筑紫哲也NEWS23(TBS、2006年10月23日にて途中降板)
ビートたけしのお笑いウルトラクイズ(日本テレビ、2007年1月1日)
山本モナのセレブ旅マリーアントワネット栄光と悲運…究極の秘密 (テレビ朝日、2008年2月11日)
ダウンタウンDX (読売テレビ、2008年3月13日)
くちコミ☆ジョニー!(日本テレビ、2007年10月〜2008年3月、水曜レギュラー)
芸能界かがく部(テレビ朝日、2008年4月7日)
びっくり法律旅行社(NHK、2008年6月5日)
さんぷんまる(NHK、2008年6月26日)

ラジオ
BATTLE TALK RADIO アクセス(TBSラジオ) 月〜木ナビゲーター(2006年1月9日〜9月14日)
大竹まこと ゴールデンラジオ!(文化放送、火曜日)

CM
ロッテ「モナ王」(『モナ先生篇』)
ライオン 「バルサン」

脚注
^ 「サンケイスポーツ」2008.7.10 20:47付け記事
^ a b 『週刊文春』2007年7月19日号
^ 『クイズプレゼンバラエティー Qさま!!』での本人談
^ 『クイズ!ヘキサゴンII』より
^ TBS系『チューボーですよ!』2008年4月19日放送分
^ 『行列のできる法律相談所』より

関連項目
jackass - jackass日本支部長に就任した

山本モナのもなろ〜ぐ(本人作成のオフィシャルブログ)
1石橋


平成18年の「第31回ホリプロタレントスカウトキャラバン」でグランプリを受賞した女優、石橋杏奈(15)が2日、東京・白金台の八芳園で行われた「七夕まつり」で浴衣姿を披露した。

 映画初出演&初主演の「きみの友だち」(廣木隆一監督)が26日に公開される。笹の葉に結びつけた14本にも及ぶ短冊では同作のヒットを祈願したほか、「チョコをいっぱい食べたい!!」など高校1年生らしい願いごとも…。「お母さんに『太ったよ』とか言われます」と舌をペロリ。理想の男性像については「一緒にいて飽きない人。どっちかっていうと、年上か同い年がいいな」と乙女心をのぞかせた。

いしばし あんな石橋 杏奈 プロフィール
生年月日 1992年7月12日
現年齢 15歳
出身地 日本 福岡県
血液型 A
公称サイズ(出典不明)
身長 / 体重 163 cm / 47 kg
BMI 17.7(低体重)
スリーサイズ 76 - 58 - 84 cm
単位系換算[表示]
身長 / 体重 5′ 5″ / 104 lb
スリーサイズ 30 - 23 - 33 in

活動
デビュー 2007年
ジャンル 女優
モデル内容 一般
他の活動 モデル
その他の記録
第31回ホリプロタレントスカウトキャラバン・グランプリ

石橋 杏奈(いしばし あんな、1992年7月12日 - )は、日本の女優、女性タレント、ファッションモデル。ホリプロ所属。福岡県出身。

来歴・人物
2006年の「第31回ホリプロタレントスカウトキャラバン」で応募総数3万8224人の中からグランプリを獲得。インタビューで博多弁で「うれしいばい」と答えた。以後、『ポスト石原さとみ』として売り出される。

テレビドラマ『失踪HOLIDAY』(テレビ朝日)でデビューした。

2008年から雑誌『セブンティーン』(集英社)の専属モデルになる。


人物
福岡ソフトバンクホークスの大ファンである。
座右の銘は全力投球。
好物は麺類。
趣味・特技はダンス。
上京する前に通っていた中学校では、放送部に所属していた。
自分の性格はマイペースだと述べている[1]。
そのルックスから「正統派」「清純派」と評される[1]。

出演

テレビドラマ
失踪HOLIDAY(2007年・テレビ朝日)菅原ナオ 役
死ぬかと思った・第10話主演(2007年・日本テレビ)
受験の神様(2007年・日本テレビ)和田沙織 役
千の風になって 第1弾「家族へのラブレター」(2007年8月3日・フジテレビ)福原美幸 役
斉藤さん(2008年・日本テレビ)桜井綾子 役
ROOKIES(2008年・TBS)星野あきら 役
赤い糸(2008年・フジテレビ)麻美 役

映画
きみの友だち(2008年)

CM
大日本住友製薬(2007年)
赤い羽根共同募金(2007年)イメージキャラクター

雑誌
セブンティーン(集英社、2008年 - )専属モデル

PV
Spontania『サヨナラ...』
ONE☆DRAFT『ラヴソング』

外部リンク
ホリプロ・石橋杏奈
第31回 ホリプロタレントスカウトキャラバン


1ハブ

 将棋の森内俊之名人(37)に羽生善治王座・王将(37)が挑戦していた第66期名人戦七番勝負第6局は、16日午前9時から山形県天童市の「天童ホテル」で行われ、17日午後8時10分、105手までで先手の羽生が勝ち、対戦成績を4勝2敗として、4年ぶりに名人に返り咲いた。

 これで羽生の名人獲得は通算5期となり、引退後は永世称号である「十九世名人」を名乗る資格を得た。これまでに羽生が獲得した永世称号は、棋聖、王位、王座、棋王、王将で、今回の名人で史上初の“永世六冠”に。大山康晴、中原誠両永世名人の“永世五冠”を抜いた。残る竜王もあと1期獲得に迫っており、史上初の“永世七冠”も視界に入ってきた。

 名人は江戸時代初期から続く称号で、世襲制から実力制に変わって以降は木村義雄十四世、大山十五世、中原十六世、谷川浩司十七世、森内十八世に次ぐ6人目。森内は昨年、永世名人の資格を獲得しており、2年連続の永世名人誕生となった。

 羽生は今回の名人奪還で保持タイトルは3冠となり、現在佐藤康光棋聖に挑戦中の棋聖戦五番勝負で4冠を目指している。MSNより


◆永世名人
 手に入れるべきものを、ついに手に入れた。将棋の羽生善治さんだ。五期ぶりに名人位に返り咲くとともに、永世名人(十九世)の称号を獲得した▲
 将棋の名人が初めて誕生したのは徳川家康の時代だ。伝統と権威でこれに優るものはない。そんな地位に「小学生のころからずっと憧あこがれを抱いていた」―羽生さんは「決断力」(角川書店)に記している▲
 夢を実現したのは十四年も前。天才・羽生さんでも通算五期の永世資格を得る道のりは長かった。その間に前人未踏の七冠を達成。いろんな大記録を達成して勝負へのこだわりが薄れたのでは、とみるのは早計だろうか▲
 名人奪回の相手が少年時代からのライバル森内俊之さんだったのも興味深い。二人は二年前、松山市で行われた棋王戦の公開対局でも対戦した。間近で見た筆者は対局場のピリピリするような空気に魅せられたのを思い出す▲
 名人戦はテレビで中継され、二人の対局を今度は茶の間で見られたのはありがたい。特に羽生さんの大逆転劇も飛び出した今期は、久々に勝負への執念を見せつけられたようで印象深かった▲
 礼儀や集中力を養う将棋がいま教育の場で見直されている。目を輝かせて取り組む子どもたちにとって、羽生さんは憧れの的だろう。次代の羽生さんを生むためにも、大記録に挑戦し続け、ふたたびフィーバーを巻き起こしてほしい。愛媛新聞より




●羽生善治(はぶ よしはる、1970年9月27日 - )は、将棋棋士。通算タイトル獲得数は歴代2位で、6つの永世称号(永世名人(十九世名人資格保持者)・永世棋聖・永世王位・名誉王座・永世棋王・永世王将)を保持している。二上達也九段門下であり、棋士番号175である。数々の実績から将棋史上最強格の棋士の一人に挙げられる。羽生と同世代の棋士には強豪が多く、「羽生世代」と称されている。埼玉県所沢市生まれ、東京都八王子市育ち。

プロデビューまでの来歴
小学校1年生で将棋を覚え、2年生の頃から八王子の将棋道場(八王子将棋クラブ)に通うようになる(親が買い物をするとき、託児所的に将棋道場を利用したということもある)。通い始めた当初、通常は8級からスタートするところを、その実力から道場の席主から与えられた段級は15級であった。これは昇級の楽しみを与えるためであった[1]。しかしその後、棋力は急速に向上していき、翌年の小学3年のときに初段、さらに、4年のときに四段、5年で五段となり、アマ強豪のレベルとなる。

子供の頃から将棋が家族内であまりにも強すぎたために、家族が不利な展開になったときは将棋盤を180度回転して、それまで家族が指していた劣勢な側を善治が、それまで善治が指していた優勢な側を家族が指し継ぐという家族内ルールが存在したという[2]。

5年生の頃から、関東各地の子供将棋大会を総なめにする。母親が我が子を見つけ易くするため、いつも広島東洋カープの赤い野球帽を被らされていて、周囲からは「恐怖の赤ヘル」と恐れられていた(羽生自身は読売ジャイアンツファンであった)[3]。

関東各地の子供将棋大会で森内俊之と知り合い、この頃からライバル関係となる。将棋大会で、先手・森内の初手▲5八飛に対して後手の羽生が▽5二飛、という珍しい出だしの将棋があった[4]。

1982年の小学生名人戦で優勝。このとき森内が3位、NHKテレビ解説者は当時19歳の谷川浩司だった。

小学生名人戦で優勝後、奨励会入り。1年余で6級から初段に昇段するなど驚異的な速度で昇級・昇段を重ね、1985年12月18日に三段において13勝4敗を記録。この成績をもって、当時の規定[5]により四段に昇段し、加藤一二三、谷川浩司に続く史上3人目の中学生棋士となる。


戦績デビュー、そしてスターダムへ
「中学生棋士」としてデビューしたのは1985年12月であったが、実質の初年度である1986年度に、全棋士中で1位となる勝率(0.741)を記録し、将棋大賞の新人賞を受賞する。翌1987年度は、勝率1位(0.820)に加えて最多勝(50勝)も記録。

羽生に追随してデビューしてきた同年代の強豪棋士達とともに、いわゆる「チャイルドブランド」[6]と呼ばれる新世代のグループを形成し、羽生は、その代表的存在として勝ち進む。特に、先手番での勝率が9割という時期があった[7]。

羽生を一気にスターダムへ押し上げることになったのは、五段時代の1988年度のNHK杯戦である。大山康晴、加藤一二三、谷川浩司(準決勝)、中原誠(決勝)と、4人の名人経験者を立て続けに下して優勝。まるで作ったかのような舞台設定で、これは多くの将棋ファンに対して羽生という棋士の存在を強烈に印象付けた。特に対加藤戦で放った▲5二銀は非常に有名であり、解説役で出演していた米長邦雄も驚嘆していた。
同年度は対局数、勝利数、勝率、連勝の記録4部門を独占(80局、64勝、0.800、18連勝)。4部門独占は、その後も他の棋士が達成していない大記録である。新人王戦、オールスター勝ち抜き戦でも優勝し、将棋大賞の最優秀棋士賞を史上最年少(18歳)で受賞した。無冠の棋士が受賞したのも、史上初である。

そして、ついにタイトル戦に登場したのが、初代竜王島朗への挑戦権を得た1989年の第2期竜王戦である。その七番勝負を4勝3敗1持将棋のフルセットの末に制し、史上最年少タイトル記録(当時)となる19歳2ヶ月で竜王位に就く[8]。この年度は、2年連続2度目の記録4部門独占も果たす(71局、53勝、0.757、15連勝)。

翌年11月に谷川に1-4で敗れ、無冠の「前竜王」という肩書きになるが、3か月後の1991年2月の棋王戦で南芳一から3-0でタイトルを奪取し、それ以降は無冠となったことがない(2008年5月現在)。また肩書きとして段位を名乗ったのは竜王戦挑戦時の六段が最後であり、その後の肩書きはすべてタイトル名(前竜王が3ヶ月あるが)か○冠という呼称である。最後に名乗った六段も、竜王戦挑戦者になったことで得た特例昇段であり、六段を名乗ったのは竜王位奪取までの3ヶ月程度である。この点からも羽生が如何に特別な棋士であるかが分かる。

なお、 1991年9月20日に第4期竜王戦1組残留決定戦で加藤一二三に敗れて2組へ降級した。竜王戦の歴史が浅いから、ということはあるが、現役のタイトルホルダー(棋王)として、また、最年少での降級という珍記録となった。


七冠独占への道
1992年度、王座を福崎文吾から奪取[9]して、自身初の二冠となる。さらに、同年の竜王戦では、1組への即復帰だけに留まらず、谷川浩司竜王への挑戦権を得、4勝3敗1千日手で奪取して竜王に復位し、自身初の三冠となる。棋王戦でも、谷川を下して防衛する。

1993年度、棋聖と王位をそれぞれ谷川と郷田真隆から奪取して、五冠となる。しかし、竜王を佐藤康光に奪われ四冠に後退する。年度末のタイトル戦である棋王戦では南の挑戦を退けて防衛する。

1994年度には、前年に史上最年長名人の記録を達成した米長邦雄から、名人位を奪取。そして、竜王を佐藤から奪還した時点で史上初の六冠王となる。なお、防衛戦の方は、前期棋聖戦、後期棋聖戦、王位戦、王座戦で、それぞれ谷川、島、郷田、谷川を下して、全て防衛に成功する。

残るタイトルは、いよいよ王将ただ1つとなった。王将リーグは5勝1敗で郷田と並んで終え、プレーオフに勝利して自身初の王将挑戦権を獲得。ついに、1995年1月からの第44期王将戦で、全冠制覇をかけて谷川王将に挑むことになる。

この王将戦七番勝負はフルセットの戦いになったが、同時進行していた棋王戦五番勝負では森下卓をストレートで下して、早々と防衛を決めていた。

そして迎えた王将戦第7局では、千日手指し直し[10]の末、敗退。谷川によって、史上初の全冠制覇を目前で阻止された[11]。この第7局の2日目当日(1995年3月24日)、対局場である青森県・奥入瀬のホテルには、将棋界の取材としては異例の数の報道陣が大挙して詰めかけていた。対局終了後、カメラや質問が主に敗者に向けられたというのも、異例のことであった。

このチャンスを逃したとき、プロ間でも将棋ファンの間でも、「いくら羽生とはいえ、もう七冠独占は無理であろう」と予測する向きが多かった。

しかし、それから1年間、羽生は全てのタイトルを防衛する。挑戦者は、森下卓(名人戦)、三浦弘行(棋聖戦)、郷田真隆(王位戦)、森雞二(王座戦)、佐藤康光(竜王戦)であった。なお、これらの防衛戦の間に通算タイトル獲得数が谷川の20期(当時)を超え、大山、中原に次ぐ歴代3位となっている。

さらに、第45期王将リーグも5勝1敗の1位で抜けて、谷川王将に2年連続挑戦する。
そして、ついに1996年2月14日、4-0のストレートで王将を奪取し、七冠独占の偉業を成し遂げた。

タイトルが7つになってからの全冠制覇は史上初の快挙で、翌日の新聞の一面を飾ったり、終局直後に生中継によるニュース速報が行われるなど、棋界にとどまらず社会全体で大々的に採り上げられた。直後に棋王戦防衛にも成功(相手は高橋道雄)したので、年度の全7タイトル制覇も達成したことになる。この年度は、テレビ棋戦のNHK杯、早指し将棋選手権でも優勝したので「九冠」とも言われた。しかも、年度勝率は、タイトル戦続きで強豪との対局がほとんどであったにもかかわらず0.8364(歴代2位)という驚異的な数字であった[12]。

さて、七冠王として迎えた新年度(1996年度)の最初のタイトル戦は、小学生時代からのライバル・森内俊之との初のタイトル戦となる名人戦であった。この七番勝負は4-1で防衛に成功し、内容的にも、両者、力を出し合った名局揃いという評価を受ける。

次の防衛戦は、2年連続で三浦弘行[13]を挑戦者に迎えた第67期棋聖戦であった。フルセットの戦いの末、三浦に2-3で敗れ、全冠独占はわずか167日(1996年2月14日-7月30日)で幕を降ろした[14]。

七冠以後
三浦から棋聖位を奪われたのと同年の第9期竜王戦と、翌1997年第55期名人戦の2つのビッグタイトル戦で、いずれも谷川にタイトルを奪われ、四冠に後退[15]。

この年度は、NHK杯決勝で村山聖に勝って4度目の優勝をしたが、これが二人の最後の対局となった(約5ヵ月後の1998年8月8日に村山が死去)。

名人位失冠後は、1999年度末まで保持していたタイトルの防衛に成功し続け、四冠を3年間堅持。2000年には谷川浩司から棋聖を奪取して再び五冠王になる。

2001年度のタイトル戦は、奪取1(竜王)、防衛3(王位、王座、棋王)、失冠2(棋聖、王将)と、目まぐるしい1年であったが、年度末時点で四冠。

2002年度のタイトル戦は、奪取1(王将)、防衛2(王座、竜王)、失冠2(王位、棋王)で、年度末時点で三冠。このうち、竜王の獲得は通算6期となり、史上初の永世竜王にあと一期と迫った。

2003年の名人戦で森内俊之から奪取して四冠になるとともに、名人位通算4期で永世名人資格にもあと一期と迫った。
ところが、同年度(2003年度)の竜王戦、王将戦、そして2004年の名人戦で、いずれも森内に立て続けにタイトルを奪われ、永世竜王・永世名人資格獲得を逸する[16]ばかりか、羽生のタイトルは王座の一冠のみとなった。
この時点で、棋界の構図は、森内竜王名人(王将と合わせて三冠)、谷川王位棋王(=二冠)、佐藤(康)棋聖、羽生王座となり、この瞬間、羽生は棋界最強の座を奪われただけでなく無冠の危機さえ迎えたかに見えた。
しかし、その2004年度中に王位、王将、棋王を奪還。その間、王座も防衛して、あっという間に再び七大タイトルの過半数を占める。

2005年度のタイトル戦は、森内へのリターンマッチとなる名人戦で始まったが、3-4で惜しくも敗れ、またしても永世名人資格獲得のチャンスを逃す。この年度は、そのほか、防衛3(王位、王座、王将[17])、失冠1(棋王=相手は森内)で三冠に後退。

同年度(2005年度)の順位戦では8勝1敗の成績だったにもかかわらず谷川とのプレーオフとなり、結果敗れて名人挑戦を逃した。8勝して名人挑戦できなかったのは唯一のケースである。なお、このプレーオフの一局は結果的に「詰ましにいって詰まなかった」ものだったが、内容は高く評価され、第34回将棋大賞で創設されたばかりの「名局賞」を、谷川とともに受賞している(翌年度も名局賞を連続受賞するが、いずれも負けた対局での受賞である)。

2006年度、王位、王座、王将を防衛して三冠を堅持(奪取と失冠はなし)。王座防衛の時点で通算タイトル獲得数を65期とし、中原誠(通算64期)を抜いて歴代単独2位となった。

2007年度、王位を深浦康市に奪われ二冠に後退。

王座戦で16連覇しており(2007年現在継続中)、1959年〜1971年にかけて大山康晴が名人戦で樹立した同一タイトル連覇記録13連覇を抜いている[18]。

2007年12月20日、第66期A級順位戦6回戦で久保利明を破り、史上8人目、最年少、最速、最高勝率で通算1000勝を達成。

2008年2月28日、第57期王将戦第5局で久保利明を破り、史上2人目の棋戦優勝100回(タイトル獲得68期、一般棋戦優勝32回)を達成。

2008年6月17日、第66期名人戦第6局で森内俊之名人を破り、名人位と三冠に復帰。通算5期獲得により十九世名人の資格を得るとともに、史上初の永世六冠(永世名人、永世棋聖、永世王位、名誉王座、永世棋王、永世王将)を達成[19]。

その2日後の2008年6月19日、第49期王位戦挑戦者決定戦で橋本崇載を破って深浦へのリターンマッチの権利を得、タイトル4連続挑戦(棋王、名人、棋聖、王位)[20]。


棋風
居飛車、振り飛車、相振り飛車のいずれも指しこなすオールラウンドプレイヤーで、幅広い序盤戦型、各局面で先入観にとらわれない柔軟な発想と決断力、豊富な戦術に定評がある。そのため対策が立てにくく、今に至るまで高い勝率を維持していると言われる。[要出典]
終盤での絶妙の勝負手、他の棋士が思いつかないような独特な寄せ手順から逆転することから「羽生マジック」と称される。
棋風は「泰然流」「無双流」などと名づけられているが定着していない。
好きな駒は銀将。2008年5-6月の永世名人資格を獲得した名人戦でも銀の動きに異彩を放った。
金銀を、2三(後手なら8七)や8三(後手なら2七)に打った対局の勝率が高いと言われている。ここに金銀を打つのは、通常は勝ちづらいと考えられている手法である。このため、棋界の一部では、これらのマス目は「羽生ゾーン」と呼ばれている[21]。
エピソード・人物

対局に関するエピソード
得意なタイトル(王位・王座・棋王・王将)と得意ではないタイトル(竜王・名人・棋聖)との獲得数の差が顕著である。永世名人は小学生時代以来のライバルである森内俊之に先を越された。ただし、それでも永世名人・永世棋聖はすでに達成、永世竜王(通算7期/連続5期)にもリーチをかけている(竜王を通算6期獲得しているのは羽生だけであるが、連続5期の条件の方で現竜王の渡辺もリーチをかけている)。
プロデビューして間もない低段時代には、上目で相手をにらみつける(ように見える)「ハブ睨み」が相手を恐れさせたとされる。
初手を指すとき、歩を持った手を若干左斜めに上げてから下ろす。それはあたかも、将棋漫画の登場人物の様な動作である。
対局中、勝ちを確信したときに、無意識に打ち下ろした駒をさらに指で盤に押し付ける仕草(通称「グリグリ」)をすることがある。
初めて竜王位に就いた1989年頃は、先輩棋士(自分より段位や実績が上の棋士)と対局する際、上座に座るべきか下座に座るべきか、毎局悩んでいたが、1990年に一期で竜王位を失って以降は、席次に関しては、タイトル保持者としてふさわしい行動をとるよう努め、それで反感を買っても仕方がない、という考えをとるようになった[22]。その後1994年に、A級順位戦8回戦で中原誠(当時の肩書きは前名人)と対戦した際、羽生(当時王位・王座・棋王・棋聖の四冠)が上座についたことで物議をかもした。この件は「上座事件」と呼ばれることもある。これについて羽生は、それまでのリーグ戦の成績が、自分の方がよかったので勘違いした、と語っている[23]。
若手時代、NHK杯戦で先手番となったとき、▲2六歩▽8四歩▲2五歩▽8五歩という相掛かりの出だしの後、常識とされる5手目▲7八金を指すまでに若干の時間を使って考慮をし、観戦している人々をドキリとさせたことがある[24]。
最初の五冠王となったころは「振り駒も強い」といわれた。実際、1992年度と1993年度のタイトル戦における振り駒(第1局および最終局)は12回行われたが、すべて羽生が先手となった。
1993年12月24日の対谷川戦(棋聖戦)において、序盤で4四の歩のタダ取りを許す▽4二角、さらには、いったん敵玉に迫っていた7九の と金を、香車を取るだけのために2手をかけて▽8九〜▽9九へ「退却」させるという、将棋の常識からかけ離れた奇手を指した。売られた喧嘩に谷川が応じる展開の乱戦となり、さらに終盤だけで80手ほどもある激戦となったが、結果、羽生が勝利している。
1994年、初めて名人位を獲得した直後のNHK杯戦・対畠山鎮戦で、先手・畠山の初手▲2六歩に対して2手目▽6二銀と指したことがある。そして、10手目で▽3四歩とするまで羽生の歩が1つも動かないという、極めて珍しい出だしとなった。まさに「名人に定跡なし」といったところであろうか。
結果、勝利したものの、自陣を整備するのに神経をすり減らす展開であった。
なお、羽生は、これについて後に「▽6二銀は損だが、どれぐらい損であるかを見極めるために指した。どれだけ損であるかがわかったので、もう指すことはない。」という旨を語っている[25]。
2003年の第51期王座戦では、タイトル戦初登場で19歳の渡辺明五段(当時)の挑戦を受け3-2で防衛したが、最終の第5局の終盤で羽生の手が震えて駒をまともに持てなかったということは有名である[26]。ただし、このときに限ったことではなく、一手のミスも許されない終盤で羽生の手が震えるというのは、比較的よく見られることのようである[27]。
2007年10月14日放送のNHK杯戦、対中川大輔戦で奇跡的な逆転勝利(中川の玉がトン死)を挙げ、当時の解説でNHK杯現役最多優勝記録保持者の加藤一二三をして「NHK杯戦史上に残る大逆転」と言わしめる対局となった[28]。
2008年の第66期名人戦第3局(2008年5月8日〜9日)において、控え室[29]の棋士達が森内俊之の勝ちと判断して検討を打ち切った後の敗勢から驚異的な粘りを見せて、最後の最後で森内のミス[30]を誘い、大逆転勝利を挙げる。その凄まじさは副立会人の深浦康市が「50年に1度の大逆転」と評したほどであった。
史上初のネット公式棋戦である大和証券杯ネット将棋最強戦の第2回、1回戦・渡辺明竜王との対局(2008年5月11日)において、マウス操作の関係のミス[31]によって、痛恨の時間切れ負けをする[32]。時間切れとなった局面は68手目、中盤から終盤への入り口で一番面白くなるところであり、しかも羽生優勢[33]の局面であった[34]。なお、これは羽生にとってデビュー以来初めての反則負けとしてマスコミに注目され、翌日の朝刊では一般紙や地方紙でも取り上げられた[35]。

その他
血液型はAB型である[36]。
東京都立富士森高等学校に通っていたが、将棋に専念するため中退。後に東京都立上野高等学校通信科を卒業する。
寝癖がトレードマークであったが、結婚後はあまり見られなくなった(扶桑社から発刊された「新しい単位」という本では、羽生の寝癖がついているというイメージから、「だらしなさ」の単位として「hb(ハブ)」が採用されている)。演歌歌手・長山洋子の歌「たてがみ」は、羽生に対するオマージュソングである(「たてがみ」は羽生の寝癖になぞらえたタイトル)。
妻は元女優の畠田理恵。婚約発表は1995年7月。1996年2月19日に畠田が駅で暴漢に襲われる事件が発生。この事件は七冠達成から僅か5日後であったため、マスコミで大きく取り上げられた。
挙式は1996年3月28日。[37]
1997年7月に長女、1999年11月に二女が誕生。2人の女の子の父親となる。
能條純一の漫画作品『月下の棋士』の主人公・氷室将介の圧倒的な強さと対局時のオーラは羽生をモデルにしていると作者が単行本最終巻で語っている。
趣味は水泳とチェス。チェスでは、FIDE Masterの称号を持ち、2008年4月現在においてレイティングは2404と日本国内1位で、国内屈指の強豪である。日本チェス協会の国内称号である段位は六段となっている。
2006年11月14日に八王子市より八王子観光大使を委嘱される。
お笑い芸人Bコースのメンバー、ハブは彼の従兄弟にあたる。
子供の頃公文式をしていたため、CMに起用されていたこともある。また、その頃から七冠王になるまでを書いた本(羽生善治ストーリー、マンガ形式)もある。
テレビ番組「進め!電波少年」内のコーナーで、松村邦洋と、19枚落ち(羽生の駒は玉将のみ)で対戦するが、松村が将棋のルールを全く知らなかったこともあってか、勝利を収めている。

昇段履歴
1982年12月2日 - 6級で奨励会入会
1983年2月3日 - 5級 (9勝3敗)
1983年3月28日 - 4級 (6連勝)
1983年5月11日 - 3級 (6連勝)
1983年7月7日 - 2級 (6連勝)
1983年8月24日 - 1級 (6連勝)
1984年1月11日 - 初段 (12勝4敗)
1984年9月10日 - 二段 (14勝5敗)
1985年4月25日 - 三段 (12勝4敗)
1985年12月18日 - 四段 (13勝4敗)[38] = プロ入り
1988年4月1日 - 五段 (順位戦C級1組昇級)
1989年10月1日 - 六段 (竜王挑戦)
1990年10月1日 - 七段 (竜王位獲得)
1993年4月1日 - 八段 (順位戦A級昇級)
1994年4月1日 - 九段 (タイトル3期・・・八段昇段前にタイトル3期は達成していたが、1年以内の飛び昇段ができない規定のため)

主な成績
在籍クラス
第21期竜王戦(2007年秋〜2008年秋) 1組
1組以上通算18期(第3〜4, 6〜21期)
第67期順位戦(2008年度) 名人在位
A級以上通算16期(第52〜67期)

獲得タイトル
(2008年6月現在)

竜王 6期(第2期・5期・7期・8期・14期・15期) − 最多在位記録、永世竜王まで、あと1期
名人 5期(第52期 - 54期・61期・66期) − 永世名人(十九世名人、引退後襲位)
棋聖 6期(第62期 - 66期・71期) − 永世棋聖
王位 12期(第34期 - 42期・45期 - 47期) − 最多在位タイ記録、永世王位
王座 16期(第40期 - 55期) − 最多在位記録、最多連覇記録、名誉王座
王将 11期(第45期 - 50期・52期・54期 - 57期) 永世王将
棋王 13期(第16期 - 27期・30期) − 最多在位記録、永世棋王
獲得合計69(歴代2位)

一般棋戦の優勝歴
若獅子戦 2回(第10回・12回)
天王戦 2回(第3回・4回)
新人王戦 1回(第19回)
NHK杯 6回(第38回・41回・45回・47回・48回・50回)
JT将棋日本シリーズ 3回(第12回・20回・24回)
早指し将棋選手権 3回(第26回・29回・36回)
銀河戦 4回(第8期・9期・12期・14期)(※非公式戦時代の5期・6期にも優勝)
全日本プロトーナメント 3回(第8回・10回・12回)
朝日オープン将棋選手権 4期(第22回〜25回)
オールスター勝ち抜き戦(5連勝以上) 4回(第11回(6連勝)・13回(5)・20回(16)・22回(7))
合計32回(歴代2位)

将棋大賞
第14回(1986年度) - 勝率一位賞・新人賞
第15回(1987年度) - 勝率一位賞・最多勝利賞・敢闘賞
第16回(1988年度) - 最優秀棋士賞・勝率一位賞・最多勝利賞・最多対局賞・連勝賞
第17回(1989年度) - 最優秀棋士賞・勝率一位賞・最多勝利賞・最多対局賞・連勝賞
第19回(1991年度) - 敢闘賞
第20回(1992年度) - 最優秀棋士賞・勝率一位賞・最多勝利賞・最多対局賞・連勝賞
第21回(1993年度) - 最優秀棋士賞
第22回(1994年度) - 最優秀棋士賞・最多勝利賞
第23回(1995年度) - 最優秀棋士賞・特別賞(七冠独占による)・勝率一位賞・最多勝利賞
第24回(1996年度) - 最優秀棋士賞
第26回(1998年度) - 最優秀棋士賞・最多対局賞
第27回(1999年度) - 最優秀棋士賞
第28回(2000年度) - 最優秀棋士賞・勝率一位賞・最多勝利賞・最多対局賞・連勝賞
第29回(2001年度) - 最優秀棋士賞
第30回(2002年度) - 最優秀棋士賞・最多勝利賞・最多対局賞
第32回(2004年度) - 最優秀棋士賞・最多勝利賞・最多対局賞
第33回(2005年度) - 最優秀棋士賞・最多対局賞・連勝賞
第34回(2006年度) - 優秀棋士賞・名局賞(第64期A級順位戦プレーオフ 対谷川浩司九段戦)
第35回(2007年度) - 最優秀棋士賞・最多勝利賞・最多対局賞・名局賞(第48期王位戦七番勝負第7局 対深浦康市八段戦)

記録(歴代1位のもの)
タイトル関連
最高同時タイトル - 七冠(1996年2月14日-1996年7月30日)
同一タイトル連続保持 - 16期(王座、1992年 - 2007年)※継続中
最多永世位獲得-永世六冠(永世名人、永世棋聖、永世王位、名誉王座、永世棋王、永世王将)(2008年6月17日現在)
将棋大賞関連
最年少最優秀棋士賞 - 18才(1988年)
最多最優秀棋士賞(15回)
年度記録4部門賞独占(1988、1989、1992、2000年度) - 羽生以外の棋士は一度も達成していない
年度最多対局 - 89局(2000年度)
年度最多勝利 - 68勝(2000年度)
高記録達成回数
年度勝数60勝以上 - 4回[39](1988年(64)、1992年(61)、2000年(68)、2004年(60))
年度勝率8割以上 - 3回(1987年(.820)、1988年(.800)、1995年(.836))
通算勝数関連
1000勝所要年月最速 - 22年0ヶ月
最年少1000勝 - 37歳2ヶ月23日
1000勝時最高勝率 - .7283
賞金関連
獲得賞金・対局料ランキング首位 - 10年連続14回(1993年 - 1996年、1998年 - 2007年、なお1997年は谷川浩司に次いで2位)
珍記録
最年少竜王戦1組降級 - 20才11ヶ月23日(1991年9月20日)
タイトルホルダーでの最年少竜王戦1組降級(当時棋王) - 20才11ヶ月23日(1991年9月20日)

その他表彰
1994年2月 - 都民文化栄誉賞
1996年3月 - 内閣総理大臣顕彰
1999年2月10日 - 将棋栄誉賞(公式戦通算600勝達成)
2003年2月23日 - 将棋栄誉敢闘賞(公式戦通算800勝達成)
2007年12月20日 - 特別将棋栄誉賞(公式戦通算1000勝達成 = 史上8人目)

著書
「羽生の頭脳」シリーズ(全10巻、日本将棋連盟、ISBN 978-4819703109ほか)
「羽生の法則」シリーズ(1〜6巻、日本将棋連盟、ISBN 978-4819703727ほか)
『決断力』角川書店〈角川oneテーマ21〉、2005年7月。ISBN 978-4047100084。
『先を読む頭脳』(松原仁・伊藤毅志と共著)新潮社、2006年8月。ISBN 978-4103016717。
その他多数。


関連書
四人の名人を破った少年 飛矢正順 評伝社, 1990.2
竜王、羽生善治。 将棋世界臨時増刊 1990.2
羽生善治妙技伝 森鶏二 木本書店, 1993.4
羽生善治 天才棋士、その魅力と強さの秘密 大矢順正 勁文社, 1994.2
まんが羽生善治物語 高橋美幸原作 まきのまさる画 くもん出版, 1995.6
羽生善治神様が愛した青年 田中寅彦 ベストセラーズ, 1996.3
七冠王、羽生善治。 将棋世界臨時増刊 1996.3
七冠王羽生善治α波頭脳の秘密 マガジンハウス編 マガジンハウス, 1996.4
しなやかな天才たち「イチロー」「武豊」「羽生善治」万代勉ほか アリアドネ企画, 1996.7
羽生善治名人位防衛戦の舞台裏 日浦市郎 エール出版社, 1996.12
羽生善治頭の鍛え方 大矢順正 三笠書房, 1996.7
強すぎる天才・羽生善治の謎 七冠研究記者会 本の森出版センター, 1996.4
羽生善治に学ぶ子どものための「超」集中記憶術 大内延介 講談社, 1997.5
羽生 21世紀の将棋 保坂和志 朝日出版社 1997.5
天才羽生善治神話 小室明 三一書房, 1997.10
羽生善治夢と、自信と。椎名龍一 学習研究社, 2006.11



テレビ番組
NHK『プロフェッショナル 仕事の流儀』「直感は経験で磨く」(2006年7月13日放送)
スカパー! ヒストリーチャンネル『20世紀のファイルから』「棋士列伝」
日本テレビ『世界一受けたい授業』講師(2007年3月3日放送)
ほか多数


[編集] CM
明治乳業「明治ブルガリアヨーグルト」
キリンビール「秋味」
公文式
ネスレ日本「ネスカフェ 匠」

関連項目
羽生世代
将棋棋士一覧
棋戦 (将棋)
将棋のタイトル在位者一覧 (2)
棋風
NHK『大逆転将棋』
TBS『いのちの響』

外部リンク
日本将棋連盟 プロフィール
羽生無双流・羽生善治応援ページ
玲瓏:羽生善治(棋士)データベース

脚注
^ "余禄;永世名人" 毎日新聞: 2008-6-19. 2008年6月25日閲覧.
^ NHK『クイズ日本人の質問』インタビュー
^ 田中寅彦 『羽生善治 神様が愛した青年』ベストセラーズ、1996年。ISBN 978-4584191286。
^ 「佐藤康光&森内俊之のなんでもアタック」『将棋マガジン』1996年6月号。
^ 当時は、まだ、三段リーグの制度がなかった。
^ 島朗による命名。
^ 1989年度は先手番勝率が.9355(29勝2敗)。玲瓏:羽生善治(棋士)データベースの年度別成績を参照。
^ ただし、最年少タイトル獲得記録は、わずか1年足らずで18歳6ヶ月の屋敷伸之によって塗り替えられた。
^ ここから羽生の長い王座戦連覇が始まり、後に大山が持つ同一タイトル連覇記録(名人戦13連覇)を塗り替えることとなる。ちなみに、福崎は「(羽生さんが今年も王座を防衛したので、私は)今年も“前王座”を防衛しました」というジョークを言うことがある。
^ 千日手局は前局と全く同じ手順で進み、41手目で初めて先手の谷川が手を変えた。「お互いの意思がピッタリ合った」(日本将棋連盟書籍編『谷川vs羽生100番勝負-最高峰の激闘譜!』日本将棋連盟、2000年。ISBN 978-4819702102より)
^ 谷川は、第1局と第2局の間に阪神淡路大震災で被災していた。谷川は後に「(逆に)もしも震災がなかったら、このとき敗れていたのかもしれない」という旨を語っている(『別冊宝島380 将棋王手飛車読本-将棋の神に選ばれし者たちの叫びを聞け』宝島社〈別冊宝島〉、1998年。ISBN 978-4796693806より)。
^ 46勝9敗のうち、タイトル戦だけでは25勝5敗(.8333)。この年度の最終戦となった屋敷戦に勝っていれば、中原の持つ最高勝率(.8545 47-8)に並ぶことができた。
^ 羽生の全冠独占後に雑誌『将棋マガジン』(日本将棋連盟発行)の中で「羽生から最初にタイトルを奪取するのは誰?」というアンケートが行われ、大抵の人が谷川や佐藤康光と答えた中、三浦と答えたのは僅か4人であった。
^ この第5局は、先手の三浦が当時としては珍しい相掛かり2八飛引き戦法を採用。この先手引き飛車は、その後、プロ間で流行するようになる。
^ この名人戦で、谷川は名人位獲得通算5期となり、十七世名人資格を得た。
^ 竜王戦は0-4のストレート敗退。羽生がタイトル戦でストレート負けを喫したのは初めてであった。
^ この王将戦七番勝負で佐藤康光の挑戦を受け3連勝しながら3連敗し、あわや将棋のタイトル戦史上初の3連勝後の4連敗を喫するところだったが、第7局を制し大逆転は実現させなかった。なお、3連勝後の3連敗で最終局を迎えるのは1978年の十段戦で中原誠十段(当時)が米長邦雄八段(当時)の挑戦を受けて防衛したとき以来2度目。(囲碁のタイトル戦では、3連敗4連勝は何度か発生している。)
^ 数字の上では大山の記録を抜いたものの、羽生自身は14連覇時の就位式(2005年)で「大山先生にはとてもかなわないが、数字の上だけでも一つ追いつくことができた」と述べており、偉大な先輩に敬意を表している。
^ 大山康晴と中原誠の永世五冠を抜く単独トップの記録。
^ 棋王戦の前の王将戦、および、王位戦の後の王座戦は防衛戦であるため、佐藤康光が持つタイトル5連続挑戦の記録(2006年度)の更新は不可。
^ 鈴木大介・勝又清和「進化する羽生将棋」『将棋世界』2008年3月号、日本将棋連盟、63-65頁
^ 羽生善治『決断力』角川書店〈角川oneテーマ21〉、2005年、5-6頁。
^ NIKKEI NET 将棋王国 コラムの森(1995年9月26日の日本経済新聞夕刊からの引用) 日本経済新聞社
^ 解説役で出演していた内藤國雄は、▲2四歩と指しても先手が僅かに悪いとされているだけであり、羽生ならば何かやってくるかもしれないと相手に思わせる雰囲気を持っている、という趣旨の解説をしていた。
^ 『将棋世界』2006年8月号、日本将棋連盟。
^ 『将棋世界』2007年1月号、日本将棋連盟。また、対局相手の渡辺も、テレビ番組で証言している。
^ たとえば、『プロフェッショナル 仕事の流儀』(NHK総合、2006年7月13日放送)で紹介された藤井猛との朝日オープンでの対局や、『囲碁・将棋ジャーナル』(NHK BS2、2008年5月17日放送)で紹介された2008年の森内との名人戦第3局(大逆転の一局、後述)でも見られ、さらに、同第4局の▲6二角成を指す際に6二の金を取るときには、隣の駒を乱してしまうほど激しく震えた。
^ 加藤は「あれー?!」「おかしいですねー。」「トン死じゃないですかー?」などの驚嘆の声を連発していた。
^ 対局場の宿(ホテル)に駆けつけた棋士達が集う部屋のこと
^ 羽生が打った飛車を森内が3枚の銀で捕獲したと思われた直後、羽生が桂馬を動かした手が王手銀取り(飛車の空き王手)となり、森内が今打ったばかりの銀が桂馬で取られてしまった。そして、森内の金・銀がぼろぼろと取られていき、その金・銀で森内の玉が寄せられる形となった。
^ 2度クリックをしないと指し手が確定されない設定(操作ミスによる指し間違いを防ぐ設定)を対局途中から解除するつもりだったが、解除するのをうっかり忘れたままであったという。時間がぎりぎりになり、着手確認の際誤った操作をしてしまい、着手が間に合わなかったという。直後の公開された感想戦および後日の公式ウェブサイト(第2回大和証券杯ネット将棋・最強戦 渡辺明竜王対羽生善治二冠戦の時間切れ負けについての追加2(5/16) 日本将棋連盟、2008年5月16日)上での発表による。
^ 3ヶ月前に中井広恵もネット対局で時間切れ負けをしている。
^ 直後の公開された感想戦での渡辺・羽生両者の見解
^ 翌日、日本将棋連盟の公式ウェブサイト(同上。第2回大和証券杯ネット将棋・最強戦 渡辺明竜王対羽生善治二冠戦の時間切れ負けについての追加2(5/16) 日本将棋連盟、2008年5月16日)で、対局者への注意徹底を行うこと、そして、万一同様の事態が起こった場合に指し継ぎの感想戦を行えるようなシステム(ソフトウェア)に変えることにより、ファンサービスを向上する旨が発表された。
^ この反則負けの3日前〜2日前には名人戦で森内に勝利して2勝1敗とし、2日後は棋聖戦の挑戦者決定戦を控えている、という過密スケジュールであった。
^ 『別冊宝島380 将棋王手飛車読本-将棋の神に選ばれし者たちの叫びを聞け』宝島社〈別冊宝島〉、1998年。ISBN 978-4796693806 の巻末に記載。
^ 日本テレビのテレビ番組『進め!電波少年』で、松村邦洋が「羽生7冠王の寝癖を直したい!」という企画をかかげて、式場へアポなし突入をされた。
^ 当時は、まだ、三段リーグの制度がなかった。
^ 羽生以外には、森内俊之(1991年63勝)、木村一基(2001年61勝)が各1回達成しているのみ。

タレントのインリン・オブ・ジョイトイさん(32)のフォトエッセー「愛のエロテロリズム」(アメーバブックス、1365円)の出版記念イベントが5日、東京都内で開かれた。インリンさんは結婚について「前は結婚すると好きなことができないと思っていたんですけど、最近は意識するようになりました。早ければ…今年中ですかね」と、初めて公の場で“結婚宣言”。式場は「まだ見に行っていません」というが、秋にもゴールインかとの報道陣の質問に否定はしなかった。

 エッセーには、インリンさんのセルフポートレートや、交際中の男性が撮影したインリンさんが手料理を作る姿の写真などのほか、幼少期やプライベート、平和へのメッセージも掲載され、インリンさんの素顔が見える1冊となっている。インリンさんは「(売り上げ)50万部を目指します。印税生活がどういうものなのか経験してみたいです。旅行にも行きたいですね。彼と? そうですね」と照れ笑いした。エッセーには交際中のその男性について書いた部分もあるが、「照れたのか、涙を流すと思ったら、『普通』って言われて悲しかったです」と、彼の反応は今ひとつだったようだ。

 インリンさんは彼の似顔絵も公開。「独特の顔をしている。あえて例えるなら犬に似ている」という。また、苦手だった料理も猛特訓したといい、「中華ばかりだったんですけど、和食を作ったんですよ。肉じゃがを作りました」と、ほほを赤く染めた。今後の活動については、「みなさんが応援してくだされば、ずっとセクシーなインリンで行きたいです」と話した。
ヒルトン姉妹:表参道で投げキス ミス・ユニバース代表を特別推薦

1ヒル

イベントに出席した(左から)パリス・ヒルトンさん、金田有加さん、平井千恵さん、ニッキー・ヒルトンさん
 バックを中心にした日本のブランド「サマンサタバサ」のPRために来日中の、世界的セレブリティー、パリス・ヒルトンさん(26)とニッキー・ヒルトンさん(24)の姉妹が6日、同ブランドの表参道GATES店(東京都港区)で開かれたミス・ユニバース日本代表の特別推薦枠を選出するイベントに出席した。

 表参道の交差点ほど近い店の前に黒いワンボックスカーが止まり、中から姉妹が顔を出すと、交差点付近に集まったファンや通行人からは歓声が上がった。白ぶちの大きなサングラスをかけたパリスさんは終始ご機嫌な様子でファンのサインの求めに応じ、投げキスまで飛び出した。

 パリスさんは日本の女性に対して「おしゃれを楽しんでいるところがすてき」、ニッキーさんも「とてもかわいらしくて大好き。髪の毛が光っていて美しい」と絶賛。22人の日本代表候補者の中から推薦枠を決める際、パリスさんは「みんな美しいので選ぶのが難しい」と悩んでいた。最終的に「パリス賞」は「笑顔がすてきだった」という理由で大阪府出身の平井千恵さん(24)に、「ニッキー賞」は「長い髪が印象的でスタイル抜群」といわれた大阪府出身の金田有加(ともか)さん(23)に決まった。2人は12月11日に開かれる今年度のミス・ユニバース・ジャパンの記者会見で来年3月の決勝大会に出場するメンバーとして名前が読み上げられる。毎日より

【関連リンク】
「サマンサタバサ」公式サイト
http://www.samantha.co.jp/


「ミス・ユニバース・ジャパン」公式サイト
http://www.missuniversejapan.com/